今週の福音
第1朗読 シラ書 27章30~28章7節![]()
第2朗読 ローマの信徒への手紙 14章7~9節![]()
福音朗読 マタイによる福音書 18章21~35節![]()
(外部サイト:聖パウロ女子修道会が開きます)
年間第23主日
神に赦され、赦すように招かれている
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
今日の黙想は、まず答唱詩編の美しい言葉から始めましょう。それは、私たちが今聞いたすべての朗読を理解するための鍵となります。
詩篇は、私たちの神が慈悲深く、憐れみ深い方であることを思い出させてくれます。神は私たちの罪を赦し、傷を癒し、私たちの命を破滅から救い出してくださいます。神の慈しみは、神との関係を回復させるだけでなく、怒り、恨み、復讐心といった重荷を負いがちな私たちの心をも癒してくださいます。
このようにして、神は私たちに与えてくださった命を守ってくださいます。神は私たちの肉体的な命だけを守ってくださるのではありません。私たちの心を癒し、平和、謙遜、自制心、そしてお互いへの愛で満たすことによって、私たちの内なる命をも守ってくださるのです。
シラ書の第一朗読は、このメッセージをさらに深めます。怒りや復讐心は、決して貯めこんでいくべき宝物ではないことを、私たちに思い起こさせてくれます。しかし、多くの人は、傷ついたプライドや自己防衛の欲求から、これらの感情にしがみついてしまいます。こうした感情は、人間の弱さの一部です。これらの感情が私たちの心に根付き、行動を左右するようになるところから、危険が始まります。平和へと導くどころか、これらの感情は私たちを徐々に神から、そしてお互いから引き離してしまうのです。
神の慈悲のイメージを心に抱きながら、福音に耳を傾けましょう。
ペトロはイエスに聞きました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」イエスは答えられました。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
イエスは次に、主人に莫大な借金を赦されたしもべのたとえ話を語ります。このしもべは、あれほどの大きな慈悲を受けたにもかかわらず、わずかな借金を負っている者を赦そうとはしなかったのです。
このたとえ話を通して、イエスは私たちに深い真理を教えてくださいます。赦しは単なる命令ではありません。それは、私たちがまず神から受けた慈悲に対する応答なのです。私たちが自分の人生において神の赦しをより深く認識すればするほど、同じ慈しみを他者にも与えることができるようになるのです。
許すことは必ずしも容易ではありません。時には深く傷つくこともあります。長年心に傷を抱え続ける場合もあるでしょう。しかし、主が私たちを癒してくださることを受け入れるならば、自分が傷ついていることを認めるのは、悪いことではないかもしれません。
イエスご自身が、傷を負った癒し手となられました。私たちの罪によって負った傷をイエスは受け入れられましたが、その受難、死、そして復活を通して、それらの傷は全世界の癒しと救いの源となったのです。
主の弟子として、私たちは主が私たちの傷ついた心を癒してくださるよう、招かれています。そうすれば、私たちの傷もまた、他者への思いやり、理解、そして赦しの源となるでしょう。
第二朗読で、聖パウロは私たちがこのように生きることができる理由を私たちに思い出させてくれます。「生きるにせよ死ぬにせよ、私たちは主のものである。」
私たちの人生はもはや私たち自身のものではありません。私たちはキリストに属しています。したがって、赦しは単なる人間の美徳ではなく、主に属する者たちの生き方そのものなのです。
日本における「すべての命を守る月間」の歩みを続ける中で、今日の聖書朗読は、命を守るということは、すべての人間の尊厳を守ることでもあるということを私たちに思い起こさせてくれます。復讐を求めるのではなく赦し、憎しみではなく和解を選ぶとき、私たちは神の命を与える愛の道具となるのです。
兄弟姉妹の皆さん、私たちは皆、神の癒しと赦しを受けています。しかし、私たちは決して神の慈悲を受けるだけの者であってはなりません。同じ慈悲を惜しみなく他者に与える者となりましょう。
神の赦しが私たちの心を絶えず変えますように。慈悲、和解、そして平和が、キリスト教の理想であるだけでなく、私たちの心の文化となり、日々の生き方そのものとなりますように。
アーメン。
主任司祭 アルセ・エクソル・マグボー
