憐れみの聖母
カトリック中原教会
Nakahara Catholic Church
カトリック中原教会へようこそ


かつてあった聖マリアンナ医科大学東横病院内でミサを捧げていた人々をきっかけとして、1958年アトンメント会が武蔵小杉に設立した教会です。
教会はすべての人のために開かれています。
信徒の方でなくても、いつでもどなたでも自由に入ってお祈りください。興味のある方、ミサに参加してみたい方、お祈りをされたい方、初めての方でも大歓迎です。
どうぞお気軽にお越しください。
お知らせ
平日ミサのお知らせ
現在、平日のミサは月曜日、水曜日、木曜日になります。
月曜日 7:00
水曜日 11:00
木曜日 7:00
カトリック中原教会からのお知らせ
ミサについて

ミサは、どなたでも参加できます。
聖堂入ってすぐの場所においてある「聖書と典礼」というパンフレットをお持ちください。
「案内」の腕章をつけた係りの者に声をかけていただければご案内いたします。
| 主日のミサ | 日曜日 | 11:00 |
| 平日のミサ | 月曜日 | 7:00 |
| 火曜日 | 休止 | |
| 水曜日 | 11:00 | |
| 木曜日 | 7:00 | |
| 金曜日 | 休止 | |
| 土曜日 | 休止 |
アクセス
所在地
〒211-0064 神奈川県川崎市中原区今井南町17番3
TEL/FAX
044-722-6060 / 044-733-9311

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今週の聖書朗読 2026年8月23日
今週の福音
第1朗読 イザヤ書 22章19~23節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 11章33~36節
福音朗読 マタイによる福音書 16章13~20節
(外部サイト:聖パウロ女子修道会が開きます)
年間第21主日
すべては神の権威と保護の下にある
私たちが日曜日に教会に来るとき、あるいは時には平日にも教会に来るとき、私たちはイエスがキリストであり、私たちの日々の生活の主であると宣言します。
教会において、私たちは神の豊かな恵みを受けます。秘跡を通して、私たちはイエスをより深く知るようになります。また、キリストの中にある私たち自身の命をより豊かに体験します。共同体と共に祈ることも大切です。ミサに参加することは、私たちの信仰を深める助けとなります。これらの経験を通して、私たちはイエスをますます深く知るようになるのです。
私たち一人ひとりは、イエス様についてそれぞれ異なる理解を持って教会にやって来ます。私たちはそれぞれ異なる家庭環境で育ち、異なる出自や人生経験を経てきました。そのため、イエス様に対する理解や応答の仕方も人それぞれ異なるのです。
今日の典礼は、私たちにある大切なことを深く考えるよう、促しています。私たちは、イエスを心から主であり救い主と認める人々と共にいるという、深い恵みを得ています。この人々は教区内の友人かもしれませんし、教区外の友人たちかもしれません。仲間の信仰は、私たち自身の信仰を強めてくれるでしょう。
人生の厳しい現実にもかかわらず、あるいはまさにその現実ゆえに、私たちはイエスへの信仰を他者に伝えることができます。どのようにしてイエスをキリスト、救い主として認めるようになったのかを分かち合うことができるのです。そうすることで、私たち自身もまた、他者にとって祝福となるのです。
私たちの存在は、教区共同体にとって祝福となり得ます。また、私たちのより小さな友人たちの共同体にとっても祝福となり得ます。
日々の生活の中で、心からイエスを主として認めることができる人は幸いです!
ペトロがイエスをキリストと認めたことは、力強い信仰の行為です。彼はイエスを救い主、そしてメシアと認めました。この同じ信仰が私たちにも必要です。それは、私たちがカトリック信者としてのアイデンティティに忠実であり続けるための、一つの必須要素です。聖体拝領を受けるとき、私たちはイエスへの信仰を表明しているのです。私たちはイエスの神性を認め、私たちの間におけるイエスの権威を認めているのです。
しかし、今日の聖書朗読は、私たちに別のことも思い出させてくれます。神の知恵は広大です。私たちはそれを完全に理解することはできません。人生には、私たちが理解できないことがたくさんあります。説明できないこともたくさんあります。
しかし、私たちは神により頼むことができます。
私たちは神の権威の下にあり、また神の御加護のもとにあります。キリストは聖体の中に存在し、また他の秘跡を通しても私たちのために存在してくださいます。聖霊は教会の中で働き続け、私たちの信仰共同体の中で働き、そして私たち一人ひとりの心の中でも働いておられます。
神は私たちを祝福し続けてくださいます。たとえ私たちが弱く不完全であっても、神は私たちを聖なる者としてくださいます。神は旅する教会を導き続けてくださいます。神は私たちを、より深い神への理解へと導いてくださいます。
したがって、イエスをキリストであり主であると認めることは、単に口先だけのことでは ありません。
それは、私たちがそこへ呼ばれている、生き方そのものなのです。
私たちは神の権威を認めます。
私たちは神の御加護を信じています。
私たちは教会の中で、主と共に留まります。
そして私たちは互いに、神をより深く知るよう助け合います。
私たちは皆、神の権威と御保護の下にいます。
そして、これこそが私たちが互いに与え合うことができる最大の祝福の一つなのかもしれません:
イエスを認識し、イエスに信頼し、イエスを日々の生活の主として生きるよう、お互い助け合うこと。
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私たちは皆、神の権威と御加護のもとに
今日の福音で、イエスは弟子たちに、ある大切な問いを投げかけます。「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」この問いは、ペトロだけに向けられたものではありません。
今日、ここにいる私たち一人ひとりにも向けられている問いです。私たちは、「イエスはキリストです」「イエスは主です」と答えることができます。でも、イエスが私たちの人生の主であるとは、実際にはどういうことなのでしょうか。
今日、私たちはこのことを少し考えてみたいと思います。人生が思い通りにならない時にも、私たちはイエスを信頼できるでしょうか。すべてを理解できない時にも、神にゆだねることができるでしょうか。そして、私たち自身が、誰かにとって神の愛や支えとなることができるでしょうか。すべてが順調な時に、「イエスを信じています」と言うことは、それほど難しくないかもしれません。
では、人生が難しくなった時はどうでしょうか。病気になった時。家族のことで悩む時。将来が見えない時。一生懸命祈っているのに、答えが見えない時。その時、私たちは、「なぜ、こんなことが起きたのでしょうか。」「なぜ、神はこのことを許されたのでしょうか。」
と問いかけることがあります。そして、時には答えが見つかりません。今日の第二朗読で、聖パウロは神の知恵について語っています。「神の判断は何と究めがたく、その道は何と極めがたいことか。」神の知恵は、私たちの理解をはるかに超えています。私たちは、神についても、自分の人生についても、すべてを理解できるわけではありません。だからこそ、信仰とは、すべてを理解することではありません。分からない時にも、神を信頼することです。これは、いつも簡単なことではありません。祈り続けても答えが見えない時、それでも祈り続ける。解決が見えない時、それでも希望を失わない。自分ではどうすることもできない時、神にゆだねる。そして時には、「主よ、私は今、何が起きているのか分かりません。でも、あなたを信頼します。」と祈ることです。ペトロも、いつも強い信仰を持っていたわけではありません。イエスを「メシア」と告白した後も、恐れたり、迷ったり、最後にはイエスを知らないと言ってしまいました。それでも、イエスはペトロを見捨てませんでした。私たちも同じです。私たちの信仰が弱くなる時があります。迷う時もあります。神に問いかける時もあります。それでも、神は私たちを見捨てません。
私たちは神の権威のもとにいます。そして、神の御加護のもとにいます。
神の御加護のもとにいるということは、困難がなくなるという意味ではありません。病気になることもあります。失望することもあります。大切な人を失うこともあります。祈っても、すぐに答えが見えないこともあります。しかし、神の御加護とは、困難の中でも、私たちは一人ではなく、見捨てられていないということです。キリストは私たちとともにおられます。聖体の中におられます。聖霊は教会の中で働いておられます。そして、私たち一人ひとりの心の中でも働いておられます。そして時には、神の御加護は、別の人を通して私たちに届きます。苦しい時に、誰かが話を聞いてくれた。孤独な時に、誰かが声をかけてくれた。誰かが自分のために祈ってくれた。何も言わずに、ただそばにいてくれた。そういう人を通して、私たちは神の愛を感じることがあります。そして、私たちも誰かにとって、そのような存在になることができます。私たち自身が、誰かにとって神の愛や御加護のしるしになることができるのです。私たちの言葉。私たちの祈り。私たちの忍耐。私たちが人の話に耳を傾けること。誰かをゆるすこと。その一つひとつが、誰かにとって大きな支えになるかもしれません。ですから、今日の福音を通して、もう一度、自分自身に問いかけてみたいと思います。「私は、分からない時にもイエスを信頼しているだろうか。」そして、「私がそこにいることで、誰かが神の愛を感じることができるだろうか。」私たちは、人生で起こるすべてのことを理解することはできません。神の計画をすべて理解することもできません。でも、神を信頼することはできます。神とともに歩み続けることができます。そして、お互いに神とともに歩むことを助けることができます。だから、イエスを「キリスト」「主」と告白することは、教会の中で言葉にするだけではありません。それを、毎日の生活の中で生きることです。人生が喜びに満ちている時も、主を信頼する。人生が難しい時も、主を信頼する。理解できる時も、主を信頼する。そして、理解できない時にも、それでも主を信頼する。なぜなら、私たちは一人ではないからです。私たちは神の権威のもとにいます。私たちは神の御加護のもとにいます。そして、私たちがお互いに与えることのできる大きな祝福の一つは、お互いにイエスを認め、イエスを信頼し、日々の生活の中で主とともに歩むことを助け合うことなのかもしれません。
アーメン。主任司祭 アルセ・エクソル・マグボー
